あたまのまえあたり

ブログというより備忘録

便利テクノロジーツールとの距離感

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先日、友人と会い、膝付き合わせて茶を飲みながら話をしていると、道を歩いている時も会う約束をした相手と会っている時もスマホを凝視し続けて相手の話には生返事のいわゆるSNSスマホ中毒状態の人について話題になった。
スマホ中毒について自分なりに考えたので少し書いてみる。


もはや中毒ビジネスと言える



情報の即時性が高く流れの速いSNSには深く考える前に反射的にネットへ投稿できてしまう手軽さがある為、それに慣れて中毒までいってしまうと日常生活でもワンクッション置いて先の事を見越したり相手の事を考えて言葉を発せなくなるのではないだろうか。瞬間的に思った事を指先ダイレクトでSNSへポストする日々が当たり前になれば、自分がこれを言ったら画面の向こうでそれを読んだ人間にどういう受け取り方をされてどんな反応があるか、それにより今後の自分の立場はどうなるのか、等の予測立てが鈍るのではないか。不特定多数に見られる場所で思った事を次々垂れ流す事に慣れれば攻撃的にもなるし、SNS上での諍いやもめ事はなくならないどころか却ってこじれ他人との距離感も掴めないままだからおかしな事になるのだと思われる。


ソーシャルゲームのような囲い込みシステム 



友人いわくSNSソーシャルゲームの構造は似ているらしい。 SNSでの他人からのいいねやFav等の反応はゲームにおけるアイテム報酬のようなもので、評価の数値が可視化されていることによりもっと目に見える反応=報酬が欲しくなる。ソーシャルゲーム内のグループに加入するのはSNSでのフォロー/フォロワーやフレンドの関係に置き換える事ができるようだ。どちらもコミュニティの中で報酬を与え、つながりを作らせることで止めにくくしているのだという友人の見方になるほど、と思った。確かにSNSでの他人からの反応はゲーム内でのアイテム報酬みたいなものだと思えるし、あの場はオープンなようでいてクローズドな側面もある。 なんでもかんでもつながりを持たせるのも考えものだと思う。



プッシュボタン式の感情表現



人とのコミュニケーションを情緒豊かにしたいならネット(特にSNS)を主にした交流は避けた方がいいと私は常々考えている。 ヒトはコミュニケーションの大部分を非言語要素(声のトーンや視線の動き、表情、ボディランゲージ等)に補助されているという。ネットおよびSNSの主に静止画と文字情報だけにコミュニケーションを依存させるとその他の要素を捨てることになる。 SNSはいいねの数やFav/RT等可視化された数値での評価形式で人間の感情表現がプッシュボタン化されているから、SNSという便利なツールに適度な距離感を持てずはまり込むとヒトとしての感覚がどんどん鈍くなり、他人との関係を殺風景なものにしていくと思う。
誰かと心から気持ちを伝え合うコミュニケーションをしたかったらスマホ中毒になるのは避けた方が良い。人と会って話す時は相手の表情や声の調子をみるようにするとか、当たり前に生身の体を介したコミュニケーションをした方がいい。会う約束をして一緒にいる時に俯いてスマホの画面を凝視し続ける人と会話するのは心底気持ちが削がれるし、自分ならもうこの人とはさっくり距離を置こうと考える。 ネットにはまり込む事で自分の価値や存在意義を他人からの数値での評価に求めると焦燥感も出て来るであろうし苦しいだろう。本来、自分の価値は自分が決めるものだから。但し、芸能人等自分の名前を出して商売している人達は除く。しかし芸能人のSNSも本人が個人的なつぶやき等ポストしているものはだいたい不必要な事を言って下手を打ったり炎上的要素を含む言動をしたりでイメージダウンを招くケースが多いが。




終わりに



私個人の話を少しすると、SNSと距離を置いてだいぶ経つけれどフィードに流れてくるもので常に見たい情報はほとんどないという事に気付いた。むしろ眺めているだけでもどうでもいい情報=雑音が多くて気が滅入りそうだったので気付いた時に自発的に情報を取りに行く従来のネット閲覧スタイルに戻した。
携帯キャリアの2年縛りが切れたのを機にスマホを解約し、ガラケーSIMフリータブレットの2台体制に変えた。友人間や身内との連絡は通話とメッセージアプリ、メールで賄えている。今は本当に欲しい情報しか取りに行かず不要な情報は遮断しているが、これが自分には必要十分な便利さでとても合っている。携帯性は失われるが、何よりタブレットは画面が大きいので操作もしやすい。カメラ機能ももともとあまり使わず、デジタル一眼レフで撮ることが多いのでその点も問題なく移行できた。
まああれですね、スクリーンばかり見ていると大なり小なり精神的に来るものがあると思う。


どの分野においても言えると思われる事だが、テクノロジーの進化によって得られるものと失うものは何か。自分はそれをどう使うか。一個人として便利テクノロジーツールとどう向き合うのか。今一度熟考する時ではないだろうか。